作品解説

第6回演奏会

2013年11月10日(日) 19:30開演


セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873-1943):協奏曲第2番ハ短調 作品18 (1900-1901)

《交響曲第1番》(1893-95年作曲)の1897年3月15日におこなわれたスキャンダラスな初演と無理解な酷評(※当団第5回演奏会解説をご参照ください)に晒されたラフマニノフは精神的に深いダメージを受け、全く作曲に取り組めない時期が続いた。

その間はピアニストとしての活動や、私設オペラの指揮者を務めたりしながら生活の糧を得ている。1899年にロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに赴いてピアニストとして大成功を収める海外デビューを飾り、このときに「次回イギリスを訪問する際は新作のピアノ協奏曲を披露してほしい」と依頼されている。

 

これを受けて、かの名曲《ピアノ協奏曲第2番》の作曲に取り組むのであるが、その前に高名な神経科医ニコライ・ダーリ博士(1860-1939)による暗示療法で深刻なノイローゼ状態から回復し、作曲もおおいに捗った、とされてきた。だが、ダーリの治療がどれほどの影響を与えたかについては、現在では疑問視する向きも多い。

ダーリの治療行為は1900年はじめの数回のみで、《ピアノ協奏曲第2番》の作曲に本格的に取り組んだのはその年の夏のオーストリアとイタリアへの旅行から帰国してからのこと(しかも、この旅行でも異国の地でのストレスから些か精神を病んだようである)。それでも、ラフマニノフにとってダーリは「恩人」である、という思いが強かったのであろう。この作品は初演後ダーリに献呈されている。

 

第1楽章冒頭、重々しい鐘の響きを想起させる、ピアノ独奏によって奏でられる和音が次第にクレッシェンドしていくという、空前絶後の導入部。これだけでたちまちラフマニノフの世界に惹き込まれてしまう。ピアノとオーケストラがダイナミックに渡り合う両端楽章に挟まれた第2楽章の美しさは筆舌に尽くし難い。ラフマニノフが持ち合わせているロマンティシズムが十全に発揮された、名曲中の名曲であることは、今更ここで繰り返すまでもないだろう。

 

1900年12月2日に第2楽章と第3楽章が先に披露されたのち、1901年10月27日、モスクワにおいて全3楽章の初演がおこなわれ、大成功をおさめた。第2&第3楽章の先行初演も含めて、ピアノ独奏はラフマニノフ自身が、オーケストラの指揮はラフマニノフの従兄で彼のピアノの師でもあるアレクサンドル・ジロティ(1863-1945)が受け持った。


ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893):交響曲第1番 ト短調 作品13 《冬の日の幻想》

ロシア法務省の職を辞し、サンクトペテルブルク音楽院を創設した恩師アントン・ルビンシテイン(1829-1894)のもとで音楽を学んだチャイコフスキーは、1865年、25歳のときに音楽院を卒業した。翌1866年、師アントンの弟ニコライ・ルビンシテイン (1835-1881)が設立したモスクワ音楽院で和声学と楽器法の講師として招かれることになったチャイコフスキーは、モスクワに赴いた。開校は9月からなのに、チャイコフスキーは早くも1月にモスクワ入りしている。蓄えが無いのでニコライの邸宅で居候することになり、ニコライの勧めで交響曲の作曲を始めた。しかし、サンクトペテルブルクで卒業作品として書いたカンタータを作曲家ツェーザリ・キュイ(1835-1918【註】)に酷評されてショックを受け、そのうえ昼夜をおして交響曲の作曲を進めていたため、チャイコフスキーは一時体調を崩している。

 

こうして半年余りかけて完成した《交響曲第1番》の総譜(第1稿)を師アントン・ルビンシテインやニコライ・ザレンバ(1821-1879/対位法の師)に見せるため、1866年8月末にサンクトペテルブルクに戻り彼らに意見を求めたが、ふんだんに織り込まれた民謡主題やオーケストラの扱いに対し、保守的なふたりはこれを酷評した。「大幅な書き直しをしなければ評価をおこなう気はない」とまで言われたので、チャイコフスキーは彼らの意見を容れて改訂をおこない、年末に再びふたりの師に見せたが、再度批判を受けている(第2稿/※ここまでを第1稿とする意見もある)。

師に認められなかったことで遠慮をしたのか、1866年12月モスクワで第2楽章を、1867年2月にサンクトペテルブルクで第3楽章だけをそれぞれ演奏会のプログラムに入れてもらっている。

 

《交響曲第1番》全曲の初演は1868年2月15日にモスクワで、ニコライ・ルビンシテインの指揮するロシア音楽協会のコンサートにおいておこなわれ、大成功をおさめた。チャイコフスキーは、弟に宛てた手紙のなかでこの成功を興

奮気味に伝えている。曲は初演の指揮を執ったニコライに献呈された。

 

チャイコフスキーは作曲から8年経った1874年になってこの作品の改訂をおこなっており(第3稿)、現在ではこの版が演奏されている。第3稿による初演は改訂作業から更に9年を経た1883年12月1日にモスクワにおいて行われている。

 

前半の2つの楽章には、それぞれ標題が付けられている(第1楽章:「冬の旅の幻想」、第2楽章:「陰鬱な土地、霧の土地」)。第2楽章については、1866年にチャイコフスキーが訪れたラドガ湖(サンクトペテルブルク北部にあるヨーロッパ最大の淡水湖)の印象であるともされている。

第4楽章の序奏においてファゴットによる断片的な動機と、それを受け継いだヴァイオリン群によって奏でられる哀愁を帯びたメロディは、南ロシア・カザン地方(※カザンは現在のロシア連邦・タタールスタン共和国の首都が置かれている都市の名)の民謡「咲け、小さな花」にもとづくもので、この終楽章全体を支配する。この動機を繰り返しながら長調に転じてテンポを上げていくのだが、このやり方は次の交響曲である《第2番ハ短調》においても踏襲され、とりわけ第4楽章では民謡を主題動機として反復していくというやり方が一層徹底されることとなる。

 

先人たちの交響曲を充分に研究し、伝統的な4楽章制を採りながら、いずれの楽章においてもチャイコフスキーが得意とした旋律の豊かさ、オーケストラの音色(おんしょく)の華やかさが追求されており、現在愛好されている後期の作品群に劣らぬ魅力に満ちていることは、曲を聴けば明らかだ。初期の作品としては比較的採り上げられる事が増えてきた《交響曲第1番》ではあるが、これを機会に、なかなか聴く事の少ないチャイコフスキーの他の作品にも耳目を向けて頂ければ幸いである。

 

【註】キュイ:もともとは陸軍の軍人。《ロシア五人組》(キュイのほか、ボロディン、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ)のなかでは最も長命で数多くの作品を残したが、批評家としても旺盛な活動をおこない、そちらのほうが後世に知られている。サンクトペテルブルクでのラフマニノフ《交響曲第1番》初演後のキュイによる悪意に満ちた批評は遍く知られているが、《五人組》派閥が中心となっていた「ペテルブルク楽派」と、ラフマニノフの「モスクワ楽派」(チャイコフスキーのほかアントン・アレンスキー(1861-1906)、セルゲイ・タネーエフ(1856-1915))とは音楽の方向性の違いで相容れなかったため、ペテルブルク楽派の本拠地に出向いたモスクワ楽派が一方的に叩かれた、という見方もできる。


©藤本崇