ウィーンの劇作家アウグスト・フォン・コッツェブー(1761〜1819)は、中世ハンガリーを統一して最初の王となったイシュトヴァーン1世(?〜1038)を顕彰する祝祭劇を、ハンガリーのペシュトにオーストリア皇帝フランツ2世(1768〜1835)が建設を命じた国立劇場のこけら落としで上演することになり、その台本を1811年夏に書き上げた。それが「シュテファン王」である。
楽都ウィーン在住歴20年めとなり、もはやその名を知らぬ人はいない有名人になっていたベートーヴェンに付随音楽の作曲依頼が舞い込んだ。「シュテファン」は、イシュトヴァーンのドイツ語圏における呼び名である。
この頃、体調のよくなかったベートーヴェンは、主治医の勧めでボヘミアの保養地テプリッツに湯治に出掛け、多数の文化人と親交を結んだ。
そのテプリッツにおいて、同じくコッツェブーの台本による祝祭劇《アテネの廃墟》(作品113)と同時に8月後半から取り組んでいる。湯治の効果で体調を回復させつつあったベートーヴェンの作曲のスピードはかなり早く、9月上旬に完成した楽譜はペシュトの国立劇場へ送られた。
付随音楽は序曲を含め計10曲。現在ではこの序曲すら演奏される機会は稀だが、ハンガリーのリズムを巧みに取り入れたベートーヴェンの意欲作である。
曲は、トランペット、次いでホルンによる王の到着を告げるが如き信号ラッパふうの吹奏で開始される。
木管群の楽しげなリズムに弦楽器群のピツィカートが付けられるが、信号ラッパで遮られる。やがて行進曲ふうの楽想が登場し、勇ましいシュテファン王=イシュトヴァーンの活躍を現して短いながらも堂々たる終結を迎える。
1777年の旅行でマンハイムを訪れたモーツァルトは、フルート奏者ヨハン・パブティスト・ヴェンドリングの紹介でオランダ人の商人でアマチュアのフルート奏者でもあったフェルディナン・ド・ジャン(デ・ヨングとも)と出会い、彼からの依頼で翌1778年はじめにこの作品を書いている。
ド・ジャンの依頼は「協奏曲を3曲、あとはフルート四重奏曲を2、3曲」というものだったが、出来上がった協奏曲は2曲で、しかも1曲は既に作曲したオーボエ協奏曲の編曲だったため、ド・ジャンの不興を買ってしまい、約束の半分しか報酬が貰えなかったという。
モーツァルトがこのあとフルートの作品をあまり沢山書いていないのは、ド・ジャンとの一件が原因とも想像できるが、フルートの音域を駆使して書かれたこの作品を依頼主が吹きこなせず、あれこれ理由を付けて報酬を下げたのでは、とも考えられる。なぜなら、ド・ジャンを紹介したヴェンドリングが優れた奏者だったため、彼の技術力を想定して書いたとも言われているからである。
ともあれこの作品の独奏部分は、一介の貴族や商人が娯楽で演奏するレヴェルを超えているのは確かだ。
曲は3楽章から成る。
第1楽章■アレグロ・マエストーソ ト長調 4分の4拍子 協奏風ソナタ形式
第2楽章■アダージョ・ノン・トロッポ ニ長調 4分の4拍子 ソナタ形式
第3楽章■ロンド テンポ・ディ・メヌエット ト長調 4分の3拍子 異なる複数の主題が入れ替わり立ち替わり現れるロンド形式。
1802年、ニ長調の交響曲(第2番、作品26)を書いている頃に、耳の病に冒されていたベートーヴェンは、5月にウィーン郊外のハイリゲンシュタットに引き籠もる。
聴覚の異常は、その数年以上前から自覚はあったようだが、作曲のかたわら、10月にふたりの弟に宛てて書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」(ベートーヴェンの死後に発見された)には、音楽家としては致命的な難聴という病に苦悩するベートーヴェンの心情が赤裸々に綴られている。
しかし、「遺書」の後半には「自らの芸術だけが(死への)思いを引き戻した」と書かれており、自死を思いとどまり、芸術家としての危機を乗り越えたことを語っているのだ。
この「遺書」は、後に生み出される交響曲をはじめとする作品群を理解する上で極めて重要な資料である。
さて、《英雄》の名で知られる変ホ長調の交響曲(第3番)は、1804年に完成された。
当初はフランスの将軍ナポレオン(・ボナパルト、1769〜1821)に捧げようと考えていたが、完成した年の12月にナポレオンは皇帝に即位。彼を自由精神と人間解放の旗手と見なしていたベートーヴェンは激怒して、ナポレオンへの献辞を書き込んだスコアの表紙を破り捨てた…という、やや「誇張された」エピソードが知られている。
現在、ウィーンの楽友協会に保存されている浄書されたスコアの表紙は、イタリア語でSinfonia grande(大交響曲)と書かれた下の部分が一部ガリガリと引っ掻いたような破れ方をしている。ベートーヴェンはペン先でナポレオンの名を削り取ったのである。
交響曲第3番は、ナポレオンが即位した1804年の12月、ベートーヴェンのウィーン進出(1792年)時からのパトロンであるヨーゼフ・フランツ・マキシミリアン・ロブコヴィツ侯爵(1772-1816)の屋敷で非公開の試演がおこなわれたのち、翌1805年4月7日、アン・デア・ウィーン劇場において公開初演された。楽譜は1806年10月にパート譜の形で初版が出版され、ロブコヴィツ侯爵に献呈されている。
第1楽章■冒頭、全合奏によって提示される2回の主和音からして、当時の交響曲としては型破りである。続いてチェロが先導して始まる第1主題が様々なパートに受け継がれながらスケール感豊かに発展していき、壮大なコーダ(終結部)を形成する。
第2楽章■「葬送行進曲」と題された緩徐楽章。重々しく奏される葬列の如き短調の2つの主部に、長調の挿入部を持つ。
弦楽器の穏やかな導入とともにオーボエ、そしてフルートが奏でる挿入部(故人との交遊を回想するかのようである)は次第に盛り上がるが、やがて短調の主部…葬列へと戻る。
音楽は悲愴感を増し、一度は静まりかけるが、世の終末を告げるかの如きトランペットの強奏が故人を、そして遺された者たちをも追い立てる。悲しみをこらえながら葬列は進み、やがて遠ざかる…
ベートーヴェンの書いた緩徐楽章のなかでも、様々な情景が想起される、極めてドラマティックな音楽である。
第3楽章■それまでのふたつの交響曲では、モーツァルトや師ハイドンのスタイルを踏襲してメヌエット楽章を置きながらスケルツォ的な性格を含んでいたが、この作品で初めてスケルツォと明記した。
スケルツォとは、イタリア語で冗談とか、ふざけた、というほどの言葉。既成のものに捉われない自由さを有する「諧謔」という意味あいもある。
とは言え、音楽的には厳格で、ベートーヴェンは揺るぎない構成をもってこの楽章に取り組んでいる。木管群と弦楽器群がおどけたリズムを刻み、そのあと全合奏で同じリズムを勇壮に奏でる。
トリオ(中間部)では、この作品から3本に増やされたホルンによる三重奏が聴きもの。
第4楽章■短い導入の後に、バレエ《プロメテウスの創造物》(作品43、1801年)の終曲の主題が現れ、ベートーヴェンが得意な変奏曲の形式で展開される。
この主題の原曲は「12のコントルダンス」(WoO.14、1800年以前)の第7曲で、上記の《プロメテウスの創造物》のほか、「15の変奏曲とフーガ」(作品35、1802年。「エロイカ変奏曲」として知られる)にも使われている。おそらく、元々は町々で歌われていた素朴な民衆の歌だったのだろう。自作に繰り返し取り入れているあたり、ベートーヴェンの愛着ぶりが伺える。